2026年の24時間テレビが終わりました。
今年は、私にとって少し特別な24時間テレビでした。
障がい児育児を本格的に始めてから、初めて見る24時間テレビだったからです。
わが家の次男Aoにはダウン症があり、医療的ケアも必要です。
Aoが生まれてから、病院、医療的ケア、福祉制度、保育、将来の就学など、それまで知らなかった「障がいのある人と家族が暮らす現実」を少しずつ知るようになりました。
そんな今の自分が、障がい者や福祉を大きく取り上げる24時間テレビを見たら、何を感じるんだろう。
実は、かなり楽しみにしていました。
ところが、Aoのお世話をしながらトータル4~5時間ほど見て、私の中に一番強く残ったのは「違和感」と「がっかりした気持ち」でした。
もちろん、感動した企画もあります。
「きょうだい児」を取り上げてくれたことには、障がい児を育てる親として意味も感じました。
それでも私は、テレビの中で描かれる「障がい」と、私たち家族が毎日向き合っている「障がい」の間に、大きな距離があるように感じたのです。
なぜ、障がい者は「何かに挑戦する人」「頑張って感動を与える人」として描かれることが多いのか。
何かを達成しなくても、もっと普通に暮らしている障がい者がテレビに映ってもいいのではないか。
そして今回SNSで議論になった、星野真里さんと娘さんの学校生活をめぐる話も、最初に抱いた印象と事情を知ったあとの印象は大きく違いました。
この記事では、24時間テレビを一方的に批判したいわけではありません。
障がい児の父になったことで、24時間テレビの「障害者の描き方」が以前とは違って見えた。
その違和感がどこから来たのか。
一人の障がい児の親として、考えたことを率直に書いてみたいと思います。

障がい児の父になって初めて見た24時間テレビに感じた違和感
楽しみにしていたのに、見終わって残ったのは「がっかり」だった
Aoのお世話をしながらだったので、最初から最後まで見たわけではありません。
トータルで4~5時間ほどだったと思います。
そのため、ここから書くことは番組全体を評価するものではなく、あくまで私が見た範囲で感じたことです。
それでも、見終わったあとに一番強く残った感情は、
「がっかりしたな……」
でした。
もちろん、感動する場面はありました。
一生懸命練習して、本番でその成果を披露する。
できなかったことができるようになる。
誰かが頑張っている姿を見るのは、素直にすごいと思います。
でも、番組を見ているうちに、少しずつ違和感が大きくなっていきました。
歌。
ダンス。
芸能人のチャレンジ。
華やかなステージ。
「あれ……24時間テレビって、こんな番組だったっけ?」
そんなことを考えていました。
私の頭の中には、かなり意地悪な表現ですが、
「カラオケ大会と隠し芸、時々障がい者」
という言葉まで浮かんでしまいました。
もちろん24時間テレビは、障がい者だけを取り上げる番組ではありません。
エンタメがあってはいけないとも思いません。
それでも、「チャリティー」や「福祉」を大きな柱として掲げる番組だからこそ、私はもう少し違うものを期待していたのだと思います。
障がい者が直面する現実のほんの一部しか見えなかった
私が一番引っかかったのは、テレビの中で描かれている「障がい」と、私たち家族が毎日向き合っている「障がい」の間に、大きな距離を感じたことでした。
Aoとの生活には、テレビ映えするような出来事ばかりがあるわけではありません。
むしろ大部分は、とても地味です。
毎日の医療的ケアがある。
通院がある。
発達について悩む。
使える福祉制度を調べる。
保育園に入りたくても、医療的ケアがあることで簡単にはいかないこともある。
将来どんな学校に通えるのか考える。
親だけではありません。
きょうだいだって、障がいのある子と一緒に暮らす家族の一人です。
そしてAo自身も、これから成長するにつれて、社会の中でさまざまな壁に出会うのだと思います。
そういう「障がいとともに暮らす日常」が、私が見た24時間テレビからは、あまり伝わってきませんでした。
アメブロの記事を書いたとき、私は勢いのまま、
「障がい者が直面している現実の1%も紹介されていない」
と書きました。
もちろん、1%という数字に根拠があるわけではありません。
でも、それくらい「自分たちが毎日見ている世界とは違う」と感じた、というのが正直なところです。
障がい児の父になる前だったら、私は普通に感動して見ていたかもしれません。
でも今は、その感動の画面の外側にあるものまで想像してしまいます。
この人は普段、どんな生活をしているんだろう。
家族はどんなことで困っているんだろう。
学校は?
仕事は?
福祉サービスは?
社会に出たあと、この人はどんな壁にぶつかるんだろう。
そして、テレビにはなかなか登場しない、もっと重い障がいや多くの支援を必要とする人たちは、今どんな毎日を送っているんだろう。
私が見たかったのは、もしかすると「障がい者が頑張る姿」だけではなかったのかもしれません。
障がいのある人たちが、実際にこの社会でどう生きているのか。
そのリアルを、もっと見たかった。
障がい児の父になって初めて見た24時間テレビで感じた違和感は、そこから始まりました。
24時間テレビは「障害者のリアル」よりエンタメが主役に見えた
私が24時間テレビを見ながら感じた違和感をもう少し掘り下げてみると、一つのことに行き着きます。
「障がいのある人」よりも、「テレビとして成立するパフォーマンス」の方が主役に見えてしまったことです。
もちろん、これは私が視聴した4~5時間ほどの中で感じたことです。
それでも、障がい児育児をしている今の私には、以前とはまったく違って見えました。
芸能人の挑戦・歌・ダンス…「障害者番組」ではなくなった?
24時間テレビを見ていると、芸能人が何かに挑戦したり、練習してきた成果を披露したり、歌やダンスでステージを盛り上げたりする場面がたくさんあります。
それ自体が悪いとは思いません。
24時間近い生放送です。
ずっと重いテーマだけを扱っていても、多くの人に見てもらうのは難しいでしょう。
エンタメが入口になって、普段は福祉や障がいについて考えない人が番組を見る。
それにも意味はあると思います。
でも、見ているうちに私は、
「障がい者について伝えるためにエンタメがあるのか、それともエンタメを成立させるために障がい者が登場しているのか」
分からなくなってしまいました。
芸能人が何かに挑戦する。
本番で成功する。
スタジオが感動する。
歌を歌う。
また別の企画へ進む。
その繰り返しを見ながら、障がいのある人たちの日常そのものについて、もっと知りたいと思っている自分がいました。
障がい者を24時間ずっと深刻に描いてほしいわけではありません。
笑ったっていい。
歌ったっていい。
くだらないことをしたっていい。
むしろ、そういう姿ももっと見たい。
ただ、「感動するための企画」に障がい者が配置されているように見えてしまう瞬間が、私にはありました。
「能力が高い障害者」ばかりに見えてしまった理由
もう一つ、アメブロの記事を書いたときに強く感じていたことがあります。
私はそのとき、
「結局、能力が高いか軽症の障がい者しか出演しない」
と書きました。
ただ、改めて考えると「軽症」という表現で障がいをひとまとめにするのは適切ではないと思います。
障がいは単純に「重い・軽い」だけでは分けられませんし、画面を見ただけでその人が日常生活でどの程度の支援を必要としているのかも分かりません。
それでも、なぜ私はそう感じたのか。
おそらく、テレビという媒体では、
「こんなことができた」
「こんなことに挑戦した」
「これだけ努力した」
というストーリーの方が番組にしやすいからなのだと思います。
でも、障がいのある人すべてが、分かりやすい「成果」を見せられるわけではありません。
Aoだってそうです。
これから歩けるようになるのか。
どこまで言葉を使えるようになるのか。
自分の気持ちをどんな方法で伝えるようになるのか。
今の私には分かりません。
もしかすると将来、テレビで「すごい!」と言われるような分かりやすいチャレンジはできないかもしれません。
でも、だからといってAoの人生に、伝える価値がないわけではない。
医療的ケアを受けながら生活している子。
重い知的障がいのある人。
言葉で自分の気持ちを伝えることが難しい人。
常に誰かの介助を必要としている人。
何かに挑戦して大成功するわけではなくても、毎日ご飯を食べて、笑って、怒って、家族と暮らしている人たちがいます。
そういう人たちも、同じ「障がい者」です。
私は、そうした日常をもっと見たかったのだと思います。
障害者を取り上げること自体を否定したいわけではない
ここまで書くと、
「じゃあ24時間テレビは障がい者を取り上げない方がいいのか」
と思われるかもしれません。
私は、まったく逆です。
もっと取り上げてほしい。
全国放送の大きな番組で障がいのある人が登場すれば、それまで障がい者と接点がなかった人が知るきっかけになります。
Aoが生まれる前の私自身が、まさにそうでした。
特別支援教育に携わっていても、医療的ケア児を育てる生活のリアルまでは知りませんでした。
当事者になって初めて知ったことが、山ほどあります。
だからテレビの力は大きいと思っています。
私が残念だったのは、障がい者を取り上げたことではなく、その見せ方が「挑戦」や「感動」に偏っているように感じたことです。
障がい者は、誰かを感動させるために生きているわけではありません。
すごいことを達成しなくてもいい。
前向きじゃない日があってもいい。
制度に困っている話をしてもいい。
社会への不満を言ってもいい。
家族が「しんどい」と言ってもいい。
そして、くだらないことで笑っているだけでもいい。
私はそんな姿まで含めてテレビに映ったとき、初めて「障がい者のリアル」に少し近づくのではないかと思います。
そして、この違和感について調べていくと、以前から24時間テレビをめぐって使われてきた、ある言葉にぶつかります。
「感動ポルノ」です。
強烈な言葉ですが、障がい児の親になった今、この言葉についても一度きちんと考えてみたいと思いました。
24時間テレビは「感動ポルノ」なのか?障がい児の親として思うこと
24時間テレビと障がい者について調べると、よく出てくる言葉があります。
「感動ポルノ」です。
かなり刺激の強い言葉なので、初めて聞いたときは驚く人もいると思います。
私も、障がい者が出演する番組を見て感動すること自体を否定する言葉なのかな、と感じていました。
でも、本来はもう少し違う意味を持っています。
「感動ポルノ」とは障害者をどう描くことなのか
「感動ポルノ(inspiration porn)」という言葉を広く知らしめたのは、オーストラリアの障害当事者でジャーナリストだったステラ・ヤングさんです。
「感動ポルノ」という言葉は、障がい当事者でジャーナリストだったステラ・ヤング氏によって広く知られるようになり、障がい者が非障がい者を感動させるための存在として扱われることへの問題提起として使われています。
彼女が問題にしたのは、障がいのある人が障がいのない人を感動させたり、勇気づけたりするための存在として消費されることでした。
たとえば、
「障がいがあるのに、こんなことができた」
「この人も頑張っているんだから、自分も頑張ろう」
という見せ方です。
一見すると、とても前向きなメッセージに思えます。
でも、その人がどんな生活をしているのか、社会の中でどんな不便や差別に直面しているのかよりも、
「障がいを乗り越えて頑張る人」
という物語ばかりが求められてしまったらどうでしょう。
障がい者本人ではなく、見る側が感動するための存在になってしまう。
そこに「感動ポルノ」という批判があります。
この考え方を知ったとき、私が24時間テレビを見ながら感じていたモヤモヤと重なる部分は確かにあると思いました。
障害者の努力に感動すること自体が悪いわけではない
ただ、私は、
「障がい者を見て感動したら、それは全部感動ポルノだ」
とは思いません。
Aoが昨日できなかったことを今日できるようになったら、私は間違いなく感動します。
これからAoが歩いたり、自分の気持ちを何らかの方法で伝えたり、できることが増えていったりしたら、そのたびに喜ぶと思います。
障がいの有無に関係なく、誰かが一生懸命努力して何かを成し遂げる姿には心を動かされます。
24時間テレビを見ていても、
「これはすごいな」
「よく頑張ったな」
と思った場面はありました。
だから、私は「感動させる番組をやめてほしい」と言いたいわけではありません。
むしろ気になったのは、その感動の前後にあるものが、あまり見えてこなかったことです。
私が違和感を覚えたのは「その先」が見えなかったこと
たとえば、障がいのある人が大きな挑戦をして成功する。
そこで企画が終われば、とてもきれいな物語になります。
でも、その人の人生は翌日も続きます。
学校へ行く。
働く。
福祉サービスを使う。
誰かの介助を受ける。
家族と暮らす。
社会の中で不便なことに出会う。
うまくいかない日もある。
Aoとの生活を始めてから、私は「障がい」は特別なイベントではなく、毎日の生活の中にあるものだと実感するようになりました。
たとえば、医療的ケア児を育てていると、外出一つでも準備するものが増えます。
保育園に入りたいと思っても、医療的ケアが必要というだけで、すんなり話が進むとは限りません。
制度があっても、実際に使えるかどうかはまた別の問題だったりします。
こうしたことには、挑戦を成功させた瞬間のような分かりやすい感動はありません。
でも、障がいのある人やその家族にとっては、こちらの方がずっと長く続く現実です。
だから私は24時間テレビに、成功した瞬間の「すごい!」だけではなく、
「その人は普段どう暮らしているの?」
「何に困っているの?」
「社会の側に変えられることはないの?」
というところまで、もう少し踏み込んでほしかった。
障がいを「本人が努力して乗り越えるもの」として描くだけでは、見えなくなってしまう問題があります。
本人が頑張らなくても、周囲の環境や制度が変われば解決できることもあるからです。
そして今回の24時間テレビでは、まさにそのことを考えさせられる場面がありました。
チャリティーマラソンを走った星野真里さんが語った、先天性ミオパチーのある娘さんの学校生活についてのエピソードです。
SNSでは、
「通常級にいることを選んだのだから、特別な配慮まで求めるのは違うのでは?」
という批判も広がりました。
正直に言います。
切り取られた情報を最初に見たとき、私も似たことを思いました。
でも、事情を確認していくと、話はそんなに単純ではありませんでした。
星野真里さんの娘への「通常級なら配慮を求めるな」に感じたこと
今回の24時間テレビで、SNS上でも大きな議論になっていたのが、チャリティーランナーを務めた星野真里さんの娘さんについてのエピソードでした。
星野さんの娘・ふうかさんには、先天性ミオパチーという筋肉の難病があります。
電動車いすや人工呼吸器を使いながら生活していて、現在は公立小学校の特別支援学級に在籍しています。
番組では、ふうかさんが小学校に入学したころの話が紹介されました。
特別支援学級に在籍しながら通常学級の授業にも参加していたものの、星野さんが授業参観へ行くと、娘さんは教室の一番後ろにぽつんといるような状態だったそうです。
星野さんは当時の様子を見てショックを受け、学校側に「これは当たり前ではない」と伝えたことを話していました。
このエピソードが放送されると、SNSでは星野さんに対する厳しい意見も出ました。
その中で目立ったのが、
「通常級に行くことを選んだのなら、特別な配慮まで求めるのは違うのでは?」
という趣旨の意見です。
私も最初は「それは違うのでは?」と思った
正直に書きます。
私も最初、SNSでこの部分だけを見たときは、
「それはちょっと違うんじゃない?」
と思いました。
通常学級には通常学級の環境があります。
一人の子に多くの介助が必要だからといって、担任一人ですべて対応できるとは限りません。
ほかにも30人前後の子どもたちがいる中で、「障がいがあるのだから全部対応してください」と現場だけに求めても難しい。
特別支援教育に携わってきた立場から見ても、そんな単純な話ではありません。
だから、
「通常級を選んでおいて、通常級に特別な対応を求めた」
という話なのであれば、私も違和感を覚えます。
ところが、前提を確認すると話が違いました。
娘さんは支援級に在籍し、通常級で交流していた
ふうかさんは、通常学級に在籍している子ではありません。
特別支援学級に在籍しながら、通常学級でも学んでいる子です。
星野さんは以前からインタビューでもこのことを話していて、現在も支援学級に在籍しながら通常級で過ごす時間が増えていることが確認できます。
さらに過去のインタビューでは、通常学級で学ぶためには付き添いが必要で、頻繁に参加することが難しいという現実についても語っていました。
ここを知ると、
「通常級を選んだのだから仕方がない」
という批判には、私は同意できなくなりました。
そもそも前提が違うからです。
通常級に在籍して、そこですべての教育を受けることを選択した話ではありません。
支援級に在籍する子どもが、同じ学校にいる通常級の子どもたちと一緒に学ぶ時間の中で起きたことです。
そう考えると、これは単純な、
「障がい児の親が学校に特別扱いを要求した」
という話ではないと思います。
「配慮を求める親のワガママ」で片付けていい問題ではない
もちろん、私はふうかさんの学校の詳しい事情を知りません。
当時どのような支援体制だったのか。
先生や支援員が何人配置されていたのか。
学校と家庭でどんな話し合いが行われていたのか。
その日の授業で本来どのような支援が予定されていたのか。
番組で紹介された情報だけでは分からないことがたくさんあります。
ですから、
「学校が悪い」「教育委員会の配慮不足だ」
と外部から断定することもできないと思っています。
ただ、一つだけ強く感じたことがあります。
この問題を、
「通常級に行きたいと言った親の自己責任」
だけで終わらせてしまっていいのだろうか、ということです。
障がいのある子どもとない子どもが同じ場所で学ぶのであれば、「本人が頑張って周りについていく」だけでは成立しません。
必要な支援をどうするのか。
誰が介助するのか。
担任だけで難しいなら、どんな人員が必要なのか。
学校だけでは用意できないなら、教育委員会や制度の側で何ができるのか。
そうした環境の問題も一緒に考える必要があります。
そして、ここで私は先ほど書いた「感動ポルノ」の話につながるものを感じました。
障がい者が何かに挑戦して、
「できた!」
となれば、私たちは感動できます。
でも現実の生活では、本人がどれだけ頑張ってもどうにもならないことがあります。
教室に入るための環境。
移動するための設備。
必要な介助。
一緒に学ぶための支援。
こうしたものは、子ども本人の努力だけでは用意できません。
星野さん自身も、今回チャリティーマラソンを走る理由として、すべての子どもたちが最初から居場所を決められるのではなく、自分たちで居場所を選べる社会になってほしいという願いを語っていました。
その言葉を知ると、今回の学校のエピソードも、
「うちの子だけ特別扱いしてほしい」
という話ではなく、
「障がいがあっても、参加したい場所に参加できる社会にするには何が必要なのか」
という問題提起だったのではないか。
私はそう受け取りました。
最初にSNSの切り取られた情報を見たときと、事情を知ったあとでは、私自身の受け止め方も変わりました。
そしてこれは、障がい児を育てている今だからこそ、自分自身も気をつけたいと思ったことです。
障がい児の親だからといって、ほかの障がい児家庭の事情がすべて分かるわけではありません。
見えている一部分だけで「親のワガママ」と決めつけない。
それもまた、障がいのある子どもたちが暮らしやすい社会を考えるうえで、大切なことなのだと思います。

きょうだい児の企画だけを真剣に見ていたAo兄
そんな24時間テレビの中で、私が印象に残っている企画がもう一つあります。
「きょうだい児」を取り上げた企画です。
「きょうだい児」とは、障がいや病気のある兄弟姉妹がいる子どものことを指します。
わが家でいえば、Ao兄もきょうだい児です。
Ao兄も「きょうだい児」になった
Aoが生まれてから、家族の生活は大きく変わりました。
入院、通院、医療的ケア。
どうしてもAoを中心に動かなければならない場面があります。
もちろん私たち夫婦も、できるだけAo兄との時間を大切にしたいと思っています。
でも、Aoに障がいや医療的ケアがなかった場合とまったく同じ生活ができているかと言われれば、そんなことはありません。
Ao兄もまた、私たちとは違う立場で、この家族の変化を経験してきました。
だから私は以前から、「きょうだい児」という言葉を他人事として見ることができなくなっています。
何を感じていたのかは分からない。でも親として気になった
24時間テレビできょうだい児の企画が始まったとき、不思議なことがありました。
それまで特に番組を真剣に見ている様子でもなかったAo兄が、なぜかその企画だけじっと見ていたんです。
「何か感じるところがあるのかな」
そんなことを思いながら、私は横でAo兄を見ていました。
……とはいえ、本当のところは分かりません(笑)。
たまたま興味を引く映像だっただけかもしれない。
出演していた人が気になっただけかもしれない。
Ao兄自身が「僕もきょうだい児なんだ」と考えながら見ていたなんて、親の私が勝手に決めつけることもできません。
だから、そのとき私は特に何も聞きませんでした。
ただ、いつもとは少し違うAo兄の姿が、妙に記憶に残りました。

Aoが成長していくのと同じように、Ao兄も成長していきます。
今はまだうまく言葉にできないことも、これから少しずつ感じたり、考えたりするようになるのかもしれません。
そのときに親として何ができるのか。
私自身、まだ答えは持っていません。
24時間テレビだから届けられるテーマもある
今回の24時間テレビには、かなり厳しいことを書いてきました。
でも、すべての企画に意味がなかったとは思っていません。
むしろ、きょうだい児という存在を全国放送の大きな番組で取り上げたことには、大きな意味があると思っています。
障がいのある本人だけではなく、その隣で育っている兄弟姉妹にも、それぞれの生活があります。
障がい児育児をしている家庭にとっては身近な言葉でも、世の中全体で見れば「きょうだい児」という言葉を知らない人はまだいるでしょう。
24時間テレビには、それまで障がいや福祉について考えたことがなかった人にも、一気にテーマを届けられる力があります。
だからこそ私は、24時間テレビそのものを否定したいわけではありません。
むしろ期待しているんです。
きょうだい児のこと。
障がいのある人の日常。
家族の本音。
制度の問題。
うまくいった話だけではなく、うまくいかなかった話。
「頑張ればできる」で終わらない現実。
そういうものまで、これだけ多くの人が見る番組だからこそ届けてほしい。
今回、きょうだい児の企画をじっと見ていたAo兄の横顔を見ながら、そんなことを思いました。
私が24時間テレビに求めたいのは「もっと普通の障害者」
ここまで24時間テレビについて、かなり厳しいことを書いてきました。
でも、私が言いたいのは「24時間テレビで障がい者を扱うのをやめてほしい」ということではありません。
むしろ逆です。
もっと障がいのある人たちを見せてほしい。
ただし、「障がいがあるのにこんなことができた」という特別な瞬間だけではなく、その人たちが普通に生きている姿まで見てみたいのです。
『バリバラ』が見せてくれた障害者の本音
障がい者を扱うテレビ番組で、私が好きだったのがNHKの『バリバラ』です。
残念ながら2025年3月で放送を終了しましたが、『バリバラ』にはさまざまな障がいのある当事者が出演していました。
そして扱うテーマも、決して「感動できる話」ばかりではありませんでした。
仕事。
恋愛。
家族。
差別。
性。
障がい者自身が感じている社会への違和感。
ときには笑っていいのか迷うようなことまで、障がいのある当事者自身が笑いに変えていました。
2016年には、24時間テレビの裏で「障害者×感動」をテーマにした生放送を行い、「障害者を感動的に描くこと」そのものについて問いかけたこともあります。
かなり攻めた番組だったと思います。
でも、私が『バリバラ』を好きだった理由は、単に24時間テレビを批判していたからではありません。
障がい者を「障がい者役」に閉じ込めていなかったからです。
障がいのある人だって、恋愛する。
ふざける。
怒る。
失敗する。
下ネタを言う。
社会に文句を言う。
別に誰かを感動させなくてもいい。
そこに映っていたのは「頑張っている障がい者」というより、私には「障がいのある普通の人」に見えました。
障害者は「感動させる存在」でなくてもテレビに出ていい
Aoが生まれる前の私は、障がいについて知っているつもりでした。
特別支援教育にも携わってきました。
それでも、自分の子どもに障がいがあると分かってから初めて知った世界がたくさんあります。
そして今、Aoと暮らしていて思います。
障がい児との生活は、毎日が泣けるような感動物語ではありません。
普通に笑います。
普通にイライラします。
「今日はよく頑張ったな」と思う日もあれば、「もう勘弁してくれ」と思う日もあります。
病院へ行ったり、医療的ケアをしたり、制度を調べたりする一方で、家ではくだらないことで笑っています。
それが私たちの日常です。
だから、テレビに登場する障がい者だって、もっと普通でいいんじゃないかと思います。
何かに挑戦しなくてもいい。
何かを克服しなくてもいい。
特別な才能がなくてもいい。
前向きな言葉を言わなくてもいい。
ただ、その人がそこで生きている。
それだけでテレビに映っていい。
そんな障がい者の姿がもっと当たり前にテレビの中にあったら、「障がい者」という存在そのものが、今より少し特別ではなくなるのかもしれません。
障害児を育てるようになった今だからこそ見たいもの
24時間テレビには、圧倒的な発信力があります。
普段なら障がいや福祉について調べない人にも、テレビをつけているだけで情報を届けられます。
だから私は、この番組に期待しているんだと思います。
エンタメがあってもいい。
芸能人が挑戦してもいい。
歌ってもいい。
踊ってもいい。
感動したっていい。
その中に、障がいのある人たちも**「特別な企画のための存在」ではなく、普通にいてほしい。**
医療的ケアを受けながら暮らしている人。
重い知的障がいのある人。
言葉で気持ちを伝えることが難しい人。
働いている人。
働くことが難しい人。
支援を受けながら地域で暮らしている人。
そして、その隣で生活している親やきょうだい。
成功した瞬間だけではなく、その前後に続いている日常まで映してほしい。
障がい者を美しく描いてほしいわけではありません。
かわいそうに描いてほしいわけでもありません。
もっと、そのまま見せてほしい。
障がい児育児を本格的に始めてから初めて見た24時間テレビ。
楽しみにしていた分、正直かなりがっかりしました。
でも、だから「もう見ない」とは思いません。
来年もたぶん気になります。
Aoが成長すれば、私自身の見方もまた変わっているかもしれません。
そしていつか、
「今年の24時間テレビ、ずいぶん変わったな」
と思える日が来たらいい。
障がい者を「感動させてくれる特別な人」として見るのではなく、同じ社会で暮らしている一人の人として知るきっかけになる番組を、私は見てみたいです。
まとめ|24時間テレビに期待しているからこそ、もっと障害者のリアルを見たい
障がい児育児を本格的に始めてから初めて見た24時間テレビ。
楽しみにしていた分、正直なところ、見終わったあとはかなり残念な気持ちが残りました。
芸能人の挑戦や歌、ダンスなどのエンタメが悪いとは思いません。
障がいのある人が努力する姿を見て、感動することが悪いとも思いません。
ただ、その「感動」の外側には、もっと長く続いている日常があります。
医療や介助。
学校や仕事。
福祉制度。
家族の生活。
きょうだい児。
本人がどれだけ頑張っても、環境や制度が変わらなければ解決できない問題もあります。
そして、何かを成し遂げなくても、誰かを感動させなくても、障がいのある人たちの人生には伝える価値があります。
今回、きょうだい児の企画だけをじっと見ていたAo兄の姿も、私の中に残っています。
何を感じていたのかは分かりません。
それでも、「きょうだい児」という存在を多くの人に届けられるのも、24時間テレビのような大きな番組だからこそできることだと思います。
だから私は、24時間テレビをなくしてほしいわけではありません。
もっと本気で、障がいのある人たちのリアルを見せてほしい。
成功した瞬間だけではなく、その人の日常も。
前向きな言葉だけではなく、不満や悩みも。
軽やかに生きている人も、多くの支援を必要とする人も。
「障がい者」という特別な役割ではなく、同じ社会で暮らしている一人の人として、もっと当たり前にテレビの中にいてほしいと思います。
Aoが成長するにつれて、私自身の障がいに対する考え方も、きっとこれから変わっていくでしょう。
来年の24時間テレビを見たとき、また違うことを感じるかもしれません。
それでも今は、
「障がい者を見て感動する番組」から、「障がい者を知るきっかけになる番組」へ。
そんな24時間テレビを見てみたい。
障がい児を育てる父親になった今、そう思っています。

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